2007年07月19日

★2007年7月第4週

[ 7月22日 遠いツール・ド・フランスの思い出]
(1)博物館便り

10日程前に、約100年前の英国ラレーの前キャリアがついた運搬用自転車の寄贈を受けた。昨年9月末にも横浜の方から、約80年前の英国ラレー車の寄贈を受け、これは現在「昭和の自転車」展に展示中である。
今回の自転車は、錆の発生が前泥除けと車輪を中心に全体に広がっていて、かなり手を入れてやらないと展示は出来ない。しかし前のキャリアは、トップチューブとシートチューブから出たアームでしっかり作られていて、手を入れればまだ乗れるだろう。サドルもオリジナルの金具(ベースとスプリングのみ)も同梱されていた。皮部分は痛んで捨てられたようだ。
この自転車は徳島の方からの寄贈だ。実は徳島の四国放送というテレビの「おはよう とくしま」の中で当館が紹介され、この番組を見た方から電話をいただいたのだ。徳島の骨董店から購入したが置場所に困り、破棄する寸前だった。この自転車は阪神大震災の時に出てきたものが、徳島で売られていた経過があるようだ。手離さざるを得なかった元の所有者の思いも考え、大事に保存し、また展示したいと思う。
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約100年前の英国ラレー運搬車 






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100年前と考えた根拠は、このチェンにある。幅が広く頑丈なチェンは1900〜1920年頃使われた。






(2)通勤サイクリング
ツール・ド・フランスはハイビジョンの生中継で放送されるようになって、風景とレースシーンの迫力が一段と増している。そのツールの現場に34年前、私はいた。シマノのレース用部品が誕生した1973年に、私はその部品が使われるレースの事情や改良の課題についてレポートするためにヨーロッパに派遣された。
派遣された先は、ベルギーのフランドリアという強力なチームで、今で言うとロットチームのようなスプリンター中心のチームだった。
彼らはフレミッシュと言うベルギー語を使い、私は英語であり、コミュニケーションでも苦労した。
当初はスポンサーから来たゲストという待遇を受けたが、それでは事情がよくわからない。私はメカニックの手伝いをするようになった。
その場所で何が起こっているのか、自分の目で確かめることでレポートするしか道はなかったのだ。
メカニックの仕事は遅いが、真面目に仕事をする日本人として、ツール・ド・フランスに参加する3人のメカニックの1人に入れてもらえた。たぶん私は「ツールにチームの一員として参加した最初の日本人」と言えると思う。
ツールは選手にとっては、世界で最も過酷なレースと言えるだろう。しかしそれはチームのメンバーや主催者、報道関係者にとっても同様だ。いや昔は、レース用車は普通のロードレーサー1台でタイムトライアルも走ったが、今はタイムトライアル専用車や装備を用意するので、より多忙になっているはずだし、報道陣はデジタルカメラの普及で、その日のうちに新聞社等に写真を選んで送る作業があり、大変だと思う。
当時の思い出を1つだけ書いてみよう。
ある日のレースが終った街と、後日スタートする街が500km程も離れていた。レース終了後3人で、選手の自転車を自動車に積んですぐ、明日のスタート地点へ走り出した。
選手は列車で移動したが、私達の到着は10時か11時頃だった。
ホテルでは食事時間が終っていて、食事が無く、街角のフライドポテトを腹に入れて、ホテルのガレージで自転車を洗い、整備にかかった。
何時に作業を終えたか記憶にないが、疲れきってシャワーも浴びず寝て、朝は早めに起きて、レース車をホテルの前に揃えて空気を入れた。レースが始まると第2メカニックカーにもう1人の若いメカニックと2人でレースを追走する。
第1メカニックカーは、監督とチーフメカニックが乗っていて指示を出す。第2メカニックカーは集団後方で待機する事が多いが、アシストが逃げ集団に入ると、時にはその集団の後方で走ったこともあった。
有名なガリビエ峠の30kmの登りを、長い長い選手と車の行列の中でメカニックカーを運転した。
遠い遠い夏の思い出である。(中村博司)



posted by bikemuse at 12:40| カテゴリ無し | 更新情報をチェックする
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